こんにちは。
先日、数年ぶりに会った青年が、こんなことを言いました。
「オレは障害者じゃなかった」
その方は、公的な障害の認定を受けています。数年前に交通の事故に遭って、片足は思うように動かず、いずれは切断をしなくてはならない、と医師から告げられています。
「友だちと新幹線で遊びに行ったとき、発車ギリギリで、『間に合わん、走れ』って言いよったけど、オレは走れんかった。こんなことがいくつもある」
「こんな身体じゃ、どうしようもない。オレが、この身体で生きていくには、金があるに限る。それで、金、金、金、と、がっついて、すぐに大きな金を儲けよう、とやってたら、結局、借金だらけで、どうしようもなくなった。こんなになったのも、あの事故のせいで、あの相手が憎くて、そんで…」
「こないだ、よく考えたら、交通事故やし、オレにもいくらか過失があったし、この足が不自由だと思っているのもオレで、結局、オレがオレのことをそんなふうに思ってたから、頼れるのは金って、金のことばかり考えるようになったと思う。それで、結局、投資だとか騙されて、いろんなヤツにも迷惑かけた。騙されたんもオレやし。オレは自分を障害者だ、こんなんじゃ生きていけない、って、決めつけていたんだと思った。こんなふうに、自分のことを思えるようになって、あの事故のときの相手に、ありがとう、って、思えたよ。あの事故がなかったら、普通に歩けて、普通に仕事して、が当たり前になってたから、そのままやったら、オレは何も考えないで、生きていたかもしれない。今の仕事、頑張って、できることが、いろいろ見つかったから、オレは今、楽しいよ」
このような話でした。
私は、この青年をこどもの頃から知っていますが、せっかちで、思い込みの過ぎるとこがありました。
事故を起こしたのも、事故後に「金」に走ったのも、こういった、青年が持って生まれたところによるのだろうと、私は思っています。
青年のこのようなひとがらは変わっていないし、このまま生きていくんだろう、そう思います。まだまだあれこれあるんだろうと。
この青年の今の思いを信じていないわけではないですが、その思いが自分のものとなり、これから出会う、これまで出会ってきた、いろんなできごとを、そのようにとらえることができるまでになるには、まだまだ、時間が必要なのだろう、と、私は思っています。
ただ、ひとつ、私がよかったな、と、この青年に思えることがあります。
それは、いろんな考え方がある、ということへの気づきと、いろいろな考え方をしてみることの楽しさを感じたことです。そして、考え方を変えると、自分のできることってある、という、発見で、これは、自分を大事にしようと思えるようになった、ということです。
それで、なぜ急に、そのように思うようになったか、というと、次のようなことでした。
「今の仕事の社長が、オレら社員に研修を受けるようにって言ってきて、その内容がウソくさいし、オレ、何かを信じるのって嫌いやし、ずっと無視してたんだけど、しつこく言いよるし、面倒だし、その研修に行ったんよ。それが1年ほど前だけど、そん時は何も思わんかったけど、今になって、そのときに聞いた話を思い出して、それで、オレは障害者って、思わなくていいんだ、と、思いついた」
その青年の勤め先の社長さんがどういう方なのかは存じ上げませんし、研修がどのようなもので、どういった方が話をされたのかも、私は知りません。
ただ、この青年は「このひとたちを信じてみよう」というか、「信じられそうなひと」と思ったのでしょう。それは、おそらく、この青年にとっては、自分に積極的に関わるひとがいる、ということを、信じてみよう、というところだったのかとも思います。
ということは、この青年は、ひとを信じてみようと思う気持ちを、いつかのまにか、身につけていた、ということなんでしょう。
それで、なんで、ひとを信じようなんて思えたか、というと、おそらく、信じてみたら、よかったひとがいる感じを、人生のどこかで経験していたんだと思います。
さて、それで、この青年が信じてみたらよかった、と思えるひとって、どんなひとなんでしょう。
私は、そのひとのことを知りません。おそらく、その青年も、たぶんあのひとかな、と、心あたりはあるでしょうが、はっきりとはしていないでしょう。
この青年がかつてこどもだった頃、あれこれ言うことを、「そういうこともあるよね」「そういう考えもあるね」など、こどもの頃の青年が、感じ、思い、考えることを、自分と違ったとしても、青年の身に自分を置き換え、「この子は、こう感じて、こう思って、こう考えたんだろう」と、追体験をするひとだったのかもしれません。
その追体験を言葉として、青年に語ることができたひとかもしれません。
それで、青年は、自分のことをわかってもらえた、という、受け入れられた感を持てた、と思います。
おそらく、そのひとは、そうして青年を理解しつつ、こどもだったこの青年が表す言葉を用いて、自分が考える物事の判断を教えようとしたのかとも思います。
もし、そうなら、この青年は、こどもの頃、頭ごなしに自分を判断するおとなではなく、一旦、自分のことを受け入れて、その上で、また違った考え方を話すおとなを経験できたのでしょう。
それで、世の中には信じてもよさそうなひとがいる、と、自分では知らず知らずに思えるようになったのかもしれません。
こんなことを考えていたとき、渡されたある団体の新聞を読んでいて、次のようなことを知ることができました。
沖縄に「なんくるないさ」という表現があり、それは、「どうにかなるさ」という意味のようで、その言い方の前には、「まくぅとぅそうけぇ」という言葉があるそうです。これは「真実に生きていれば」という意味だそうです。 ※
真実というのはとらえがたいので、私としては、「あれこれ考え、そのとき、こうしよ、ああしよ、と、自分に取り組むようにしていれば」「それなりに、だめにならずに、まあ、いいことあるかもね」ぐらいかな、と思います。
誰かを信じることができると、そのひとをひとつの軸とし、「あれこれ考え、そのとき、こうしよ、ああしよ、と、自分に取り組む」、そして、うまく行ったり、そうでなかったりしても、そのひとに戻って、また、意見をもらって、もしくは、そのひとなら、どう考えるかなと、思いをはせたら、「それなりに、だめにならず」生きていけるのかもしれません。
「こうするもんだ」「こうならなくては」などと、自分にも、ひとにも決めつけないで、いることの方が、自分もひとも苦しまず、追い込まず、「まくぅとぅそうけぇ」な生き方ができるのかと思います。
では、また。
※ 上地 武:あなたへの手紙 「なんくるないさ」の前にくる言葉.こころの友,
第2169号,2025年1月発行,日本キリスト教団出版局.
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