おはようございます。
昨年でしたか、十年ほどになりますでしょうか、園内研修に寄せていただいていますが、園長さんから、このような話をお聞きしました(内容はそのままに文言は変えました)。
「なかなかいろんなこどもがいて、保護者もそうで、だから先生(私)に来ていただいているんです」
私はてっきり、だから、そういうこどもと保護者の見立てと対応を、私に尋ねようということなんだなあ、と思っていましたら、そうではありませんでした。
「保育者は、本来、0歳児なら0歳児、5歳児なら5歳児と、その年齢にあった育ちを保障するのが役割です。障害や病気を持ったこどもに対応するのも、そこに含まれはしますが、それは保育者だけで抱えていくことは難しいです。なので、このこどもは、保育だけで育つこどもなのか、そうではなく、他の社会資源ともつながって、育てていかなくてはならないのか、そして、このこどもは年齢なりの育ちをするこどもなのか、そうではないのか、この保護者は保育の対応だけで十分に育児をやっていけるのか、それとも、他の支援へ結びつくことが必要なのか、この区切りをつけることが大事だと思って、来ていただいています」
「毎年、本当によくやってくれる保育者が辞めていきます。その彼女(保育者)らの姿を見ると辛いです」
私は、このお話を聞いて、すっかり、うなずきました。
年度末近くに、園内研修で寄せてもらったところで、ときに、「先生(私)、ありがとうございました。私(保育者)、今年度で辞めるんです」と、挨拶に来る保育者がいらっしゃいます。
「次はどうするの」と尋ねると、「はい、考えてないんです、けど、しばらく休憩です。ちょっと疲れました」と、辞めたくはないのだろうと感じる笑顔を返しても来ます。
この園長さんの話を聞いて以降、保育者の方への講演では、次のようなことを言うようにしています。
「先生(保育者)が、年長さんを受け持って卒園式を迎えたときに、ああ、よくこれだけ育ってくれたな、小学校に楽しく通って、勉強も頑張って、やっている習い事も続けてね、と思えるこどもが、本来、保育で育てていくこどもだと私は思います。同じとき、小学校に通えるといいな、行かないって言うんじゃないだろうか、休み時間はどうするんだろうか、友だちはできるんだろうか、ちゃんと先生の話を聞けるんだろうか、お母さんは叱るばかりにならないだろうか、こう思うこどもは、保育だけで育っていくのではないと思いますよ。他の社会資源にもつながりながら育っていくこどもであり、そうしないといらいらしていく保護者なんです。なので、こういったこどもと保護者に対応していくには、先生がどんなに頑張っても難しいんです。そこに線を引いて、先生ができる範囲と、他の社会資源に委ねていく範囲をわけないと。先生だけで抱えないでくださいね」
これは、保育と、他の社会資源、との関係だけではないでしょう。
担任と隣のクラスの保育者、幼児や乳児の担任同士、担任とフリーの保育者、担任と主任や主幹の保育者、担任と副園長や園長、こういったおとなの人間関係が、ここで私が言う、こどもと保護者に、担任が応じていくために必要なのだと思います。
まあ、単純に言えば、両親が仲良くしている家庭にはこどもは帰ろうと思うし、帰ったら喋ろうと思うけれど、そうでなければ、家にまっすぐ帰る気にはならないし、どうせ文句を言われるだけだから、どうしたらいいんや、生きててもどうしようもない、こんな思いにもなります。
おとなどうしが、例え、性格、育ち、学び、生き方が違っても、保育で行うことだけは、共同体となる。これが、こどもと保護者に応じるには大切でしょうし、それだけではなく、「疲れました」と去っていく保育者自身と、その保育者を見送る「辛さ」を和らげることも同じように考えます。
先日、友だちと言いますか、親しい年長者から、「野藤さん、こんなん知ってるか」と、聖書を解説した本を紹介され、一杯入ると、やたらくどい説明を始めるのを適当に流して、帰ってから、これまた、こどものときに、当時、お世話になった年配の方からもらった聖書の該当部分を読みました。
ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こすものがいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
また、ふたりが一緒に寝ると暖かいが、ひとりではどうして暖かくなろう。
もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。
伝道者の書 4.9-4.12 新改訳 聖書, 日本聖書刊行会, 1981.
※今は、伝道者の書、ではなく、コレヘトの言葉というそうです
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